【人物史実考】 |
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■色部勝長 | |||
弥三郎。修理進。平林城主。揚北衆の一人。
平姓秩父氏の一族父為長を祖とする。鎌倉幕府の地頭職として小泉荘色部条へ。その後、色部氏は十六代にわたり平林城を本拠地とした。 父は色部遠江守憲長。子は色部顕長、長実(長真)である。 初め山内上杉氏に仕え、後に越後・長尾氏に仕えた。 |
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中条藤資らが上杉定実の養子に、陸前・伊達氏から後嗣を迎えようとした際には反対した。 | |||
天文12年
(1543) |
謙信の兄晴景の命令に従わず、わがままな振る舞いをつくしていた。 | ||
永禄2年
(1559) |
10月28日 | 披露太刀の衆であった。(侍衆御太刀之次第)
謙信が2回目の上洛から帰国した時に家臣が太刀を送って祝した。 勝長は国人衆・譜代家臣に分類されている。 |
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永禄4年
(1561) |
9月10日 | 第四回川中島の合戦で戦功をあげる。 | |
9月13日 | 上杉謙信(政虎)より血染めの感状を賜る。
去る十日信州河中島に於て、武田晴信に対し、一戦を遂ぐるの刻、
血染めの感状とは血で書かれたものではなく、一族郎党の死傷者(血)の
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永禄11年
(1568) |
10月? | 本庄城主、本庄繁長が武田信玄に内通し輝虎に背く。
勝長は輝虎軍として本庄条を包囲した。 輝虎は10月に進軍している。 |
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永禄12年
(1569) |
1月9日 | 本庄繁長が謙信(輝虎)軍に夜襲をかける。この戦闘で勝長は戦死。
輝虎はその死を惜しんだといわれている。 享年不明。色部氏の菩提寺は千眼寺だが墓は不明。 |
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