【人物史実考】
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■柿崎晴家
    家憲、晴景、平三郎左ェ門太夫。
柿崎和泉守景家の子。中頸城郡柿崎城主。
元亀元年
(1570)
2月18日 北条氏康・氏政、誓書を謙信に送る。 
柿崎晴家を人質とし、氏康の子・三郎を謙信の養子として、西上州に送致することを約束し、且つ、謙信の兵を西上州に出し、武田信玄を牽制する事を求める。
3月5日 謙信、北条氏康・氏政に、書を送る。 
三郎を養子にするに当り、柿崎晴家を武蔵・鉢形城に遣わし、三郎が来着するまで城主・氏邦を陣営に迎え、相質とする事、及び、姪を三郎の妻とすることを約束する。
  謙信と北条氏康との越相同盟締結時に氏秀(後の景虎)を迎える代わりに晴家が小田原へ人質として赴いた。
    後に帰国。
天正3年
(1575)
  越中で転戦する。
2月16日 上杉家軍役帳に名が見える。
「柿崎左衛門太輔」
鑓:180 手明:30 鉄砲:15 大小旗:15 馬上:20(上杉家軍役帳)
馬上は騎馬武者で将校に相当する。
手明(てあき)は重装歩兵で馬上に随従する。
馬上と手明は甲・打物(刀剣)・籠手・腰指(小手)で武装する。
天正5年
(1577)
12月23日 「上杉家家中名字尽手本」(軍団名簿)に名が見える。
  織田信長内通の疑いで疑われて殺された。(景家のことか?)
内通の疑いがあったのは父・景家で、このとき殺されたのは景家だけだという説と、景家と一緒に晴家も殺されたという説もあるために記しておく。
だが、猿毛城を晴家が継いだという話から、晴家は景家と一緒に死んだのではなく、時期がずれなければならないはずである。 ちなみに景家は病没という説もある。
天正6年
(1578)
3月13日
〜5月5日
景虎支持を打ち出し、春日山城中で景勝側に殺される。没年齢不祥。
謙信公が亡くなってから、二人の養子が春日山にて睨み合いをしていた2ヶ月間の時期に、城中で殺されている。
   柿崎家の菩提寺は楞厳寺だが墓は不明。
 
柿崎の馬標は大蕪菁(おおかぶら…大根)です。


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