【人物史実考】
TOP > 【戦国・歴史】関連 > 人物史実考:直江信綱

■直江信綱
    長尾平太景貞の男(上杉古文書・上杉年譜?)
上野国総社、長尾平太景貞の子として生まれる。
「景考 藤九郎 後直江大和守姫志天直江与兵衛信綱上杉輝虎家臣成」(惣社長尾系図)
景考 藤九郎と呼ばれていた。
弘治3年(1557)   直江景綱の娘、産まれる。(信綱の妻、お船)
    直江景綱の義子になる。
義父(景綱)の例に従い、神五郎、与兵衛と称す。(上杉古文書・上杉年譜?)

直江大和守入道養子、初めは与兵衛という 直江式部 (謙信様衆)
上杉家臣団の資料

天正5年(1577)  3月5日 与板城にて直江景綱死去。(上杉古文書・上杉年譜)
信綱が家督を継承する。
奉行職も継いだ。馬廻り(旗本)大将になる。
天正6年(1578) 5月10日 景勝、与板を死守した直江等を誉める。
一、与板書夜之粉骨、敷度之勝利謂無比類与 直江式部・今井儀ハ、謙信以来老功之武士也、(歴代古案)
「高梨外記殿、直江式部殿、今井源左衛門殿」に送られた景勝の感状より。
5月 「信綱」を名乗る?
6月29日 景勝、黒滝・与板の二城将と相談して琵琶島城を攻撃させる。
与板城将…つまり直江のことかと。
7月10日 景勝、山岸秀能に与板城将・直江信綱と三条城将・神余親綱の計略について
相談するように命じる。
10月20日 北条景広との戦いにおける池浦喜右衛門の功を賞す。
天正7年(1579) 1月6日 景勝、赤井・黒滝・与板・下条等と連絡し、景虎派を攻撃する。
この「与板」は直江のことだと思われる。
天正8年(1580) 3月2日 池浦喜右衛門と木村新助の軍功を賞す。
3月10日 軽井川の戦いにおける木村新助の戦功を賞す。
天正9年(1581) 9月1日  春日山城槿の間と申す所にて、直江闇討にせられ候。
其の時、専柳斎と申す儒者も、毛利に討たれ、
名左衛門をば、登坂角内に討止め申候。(上杉将士書上)
*「上杉将士書上」の記述では上記は直江景綱となっているが、
景綱はこの時すでに死去している。信綱と混同されたようだ。

御館の乱の論功行賞の件で恨みを抱いていた毛利秀広(名左衛門)が
景勝側近の儒者山崎秀仙(専柳斎)を惨殺した。
このとき秀仙と談話中だった信綱は毛利に斬りつけて顔に傷を負わせたが、
すぐに毛利に斬られてしまった。

法名 香山院殿徳岩盛公大居士 ・ 菩提寺は徳昌寺・ 墓は不明
 


TOP 闇戦国研究所