【人物史実考】 |
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■上杉景虎 | |||||||||||
1才 | 天文23年(1554) | 小田原城主北条氏康の七男として誕生。母は瑞渓院。 | |||||||||
2才 | 弘治元年(1555) | 喝食(有髮の侍童)の体にして出西堂と呼ぶ。
成長したら箱根早雲寺の明隻和尚に頼んで出家の予定だった。 (関八州古戦録) 今川上総介氏真の口入れで信玄養子になる。
武田三郎と号す。 (関八州古戦録)
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3才 | 弘治2年(1556) | ||||||||||
4才 | 弘治3年(1557) | ||||||||||
5才 | 永禄元年(1558) | ||||||||||
6才 | 永禄2年(1559) | ||||||||||
7才 | 永禄3年(1560) | ||||||||||
8才 | 永禄4年(1561) | ||||||||||
9才 | 永禄5年(1562) | ||||||||||
10才 | 永禄6年(1563) | ||||||||||
11才 | 永禄7年(1564) | ||||||||||
12才 | 永禄8年(1565) | ||||||||||
13才 | 永禄9年(1566) | 三郎氏秀このとき13歳、いまだ童形のままで、元服前であったが、
すでにその容色は坂東に隠れなき無双のもので、そのころの 農家の杵つき唄にまでうたわれていた。 武田の三郎どのと 一夜ちぎらば梨地鞍 召さぬは泣いて御座べいな 辛苦て有もすべい (関八州古戦録) この文では永禄11年に三郎は13歳となっている。 前後の解説では越相講和までの動きが書かれているのだが、 他の史料を見ると永録11年に越相講和は間違いという疑いがある。 よってこの文の年齢の記述のみ信じることとする。 |
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14才 | 永禄10年(1567) | 10月 | 武田と今川が義絶状態になった時に小田原へ戻る。
(関八州古戦録)
信玄が駿河、相模に侵入して同盟が破れる。 元の北条三郎に戻る。 (関八州古戦録) |
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15才 | 永禄11年(1568) | 8月10日 | 氏康から氏秀へ手紙
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12月24日 | 氏康、謙信に講和を申し込む。 関八州古戦録によれば、5月頃から講和について動いていたらしいが、 この頃にすでに三郎を人質にすることが決まって、9月の中旬に 輝虎と氏康父子の対面があったとなっている。つじつまがあわないので あえて関八州古戦録の文は無視している。 |
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16才 | 永禄12年(1569) | 北条幻庵の子息、北条新三郎(綱重)と弟が蒲原城で討死。
氏康七男、氏秀を幻庵の養子にする。 氏秀、幻庵の娘と結婚。元服し幻庵に三郎と名付けられた。 (小田原北条記) |
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2月6日 | 北条方の使僧・天用院、氏政の誓紙を携え上野沼田で和議を進める | ||||||||||
4月27日 | 上野新田で和議を進める
上杉方は松本景繁、北条方は遠山康光等。 氏政の次男・国増丸を謙信の養子とすることを決める。 |
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閏5月3日 | 越相講和 | ||||||||||
6月9日 | 謙信、誓書を北条氏に送り国増丸を養子とすることを求める。
廣泰寺昌派を相模・小田原に遣わした。 氏康・氏政父子の誓書と国増丸を養子とすることを求める。 |
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氏康父子、誓書を謙信に送る。 | |||||||||||
10月16日 | 氏政、前約を改める。
弟・三郎を国増丸に換え謙信の養子とする事を 由良成繁を通じ、謙信に報ずる。 5、6歳の子供を手元から離すのは…と情に訴えている。 |
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17才 | 元亀元年(1570) | 2月18日 | 北条氏康・氏政、誓書を謙信に送る。
柿崎晴家を人質とし、氏康の子・三郎を謙信の養子として、西上州に 送致することを約束し、且つ、謙信の兵を西上州に出し、武田信玄を 牽制する事を求める。 |
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3月5日 | 謙信、北条氏康・氏政に、書を送る。
三郎を養子にするに当り、柿崎晴家を武蔵・鉢形城に遣わし、 三郎が来着するまで城主・氏邦を陣営に迎え、相質とする事、 及び、姪を三郎の妻とすることを約束する。 |
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3月26日 | 北条氏康・氏政、謙信に三郎の出立の期日を知らせる。 | ||||||||||
4月5日 | 小田原出立。 | ||||||||||
4月9日 | 厩橋城に着く。 | ||||||||||
4月10日 | 謙信、三郎と沼田城で対面 | ||||||||||
4月初め | 春日山城に入城
三郎夫婦は越後へ。 (小田原北条記) 正月に越後へ来たことになっているが…間違い? 遠山左ェ門尉、山中民部が従ってきた (謙信軍記) 永録11年に来たことになっているが…間違い? |
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4月25日 | 縁組祝儀
謙信より「上杉三郎景虎」と名付けられ養子になる。 (関八州古戦録・小田原北条記) 上杉景勝の妹を妻に迎えた。 春日山城二の郭に住まわせた (関八州古戦録) |
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5月12日 | 北条氏康から謙信へ喜びの書状を送る
「誠に以て千秋万歳、愚老に於て本望満足これに過ぎず候」 |
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18才 | 元亀2年(1571) | 春 | 長男、道満丸生まれる | ||||||||
10月3日 | 氏康死去
三郎景虎、小田原へ行きまもなく帰ってきた (謙信軍記) |
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19才 | 元亀3年(1572) | 正月 | 氏政が謙信と断交、武田と同盟
甲相同盟成立。甲相一和、もしくは甲相入魂ともいう。 |
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20才 | 天正元年(1573) | ||||||||||
21才 | 天正2年(1574) | 能州を三郎景虎と喜平次景勝に守らせた (謙信軍記)
畠山が家臣の反逆にあって危機にさらされた。越後へ援軍を求め船で援軍を 向かわせたが、悪風で間に合わず畠山は逆臣に敗れる。 その後、逆臣と越後勢は戦い越後の勝利。能州は謙信の領土になった。 その土地を二人の養子に守らせたらしい。 |
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22才 | 天正3年(1575) | ||||||||||
23才 | 天正4年(1576) | 12月 | 謙信が越前宮野の城主中沢長清兵衛信長を誅罰、その家臣五十余人を誅殺させた。
その際に、中条五郎左衛門(半蔵)は鉄砲で8人撃ち、苦桃伊織の家来・浄真は 小太刀で7人斬り殺した。 「鉄砲は遠くからの攻め道具であるから、浄真働きの方が抜群である」 と賞した。 謙信は 「いずれにしても、手にする武具は、おのれの得意とする業物で やればよい。たとい飛び道具を使ったとて、撃たれて死ねば、 やはり死は死だ。 小太刀で討っても、敵を討ったことに変わり はない。人の上に立つ大将となるべき人間の一言は、ふかき 思慮をもってすべきだ。軽率なことを言ってはならぬ」 と景虎をにらみつけた。(名将言行録) 前後の文からこの年だと推定。 この後に中沢の城を攻めているので他の文献を見ればわかるかも。 |
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24才 | 天正5年(1577) | ||||||||||
25才 | 天正6年(1578) | 3月9日 | 謙信倒れる (小田原北条記) | ||||||||
3月13日 | 謙信死去 (甲陽軍鑑) | ||||||||||
14日〜15日 | 春日山城内で本城、二の郭で戦闘 (甲陽軍鑑) | ||||||||||
3月15日 | 謙信公葬儀 | ||||||||||
3月24日 | 景勝が本丸占拠 | ||||||||||
5月13日夜 | 御館へ逃げる | ||||||||||
5月29日 | 武田勝頼国境へ迫る | ||||||||||
8月6日 | 岩井歳能に堪忍分として下条宮内少輔 念仏寺領を与える。 | ||||||||||
8月20日 | 武田勝頼の斡旋で景虎・景勝の和議が成立。 | ||||||||||
8月28日 | 和議の決裂
斡旋していた武田勝頼は甲斐に帰国 |
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9月2日 | 北条景広に使いを出す。
上野厩橋城将の北条景広が北条城に帰る事を聞いて使いを出した。 明日、鉢崎に出陣して旗持城を攻め、且つ、速やかに 相模北条氏の援兵を案内するように命じた。 |
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9月 | 三条城将・神余親綱に糧米を御館城に輸送させる。 | ||||||||||
9月23日 | 鮎川盛長を己に帰属させる。
本庄秀綱が栃尾より御館城に入って景虎を助ける。 これを鮎川に報じて本庄繁長との闘争止めさせた。 |
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9月26日 | 大場口で景勝と戦闘するが敗れる。 | ||||||||||
10月10日 | 相模鶴岡八幡宮に戦勝祈願する。 | ||||||||||
10月28日 | 赤川親兵衛に帰属を勧め道場を立てる事を約束する。 | ||||||||||
11月4日 | 琵琶島城の危急を聞き小笠原を遣わして助ける。
本庄秀綱を栃尾城に帰して中越の味方を糾合させる。 |
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26才 | 天正7年(1579) | 1月 | 猿毛城将・上野九兵衛尉を誘い、帰属させようとする。
九兵衛尉は応じなかった。 |
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2月1日 | 景勝に御館城を攻撃される。 | ||||||||||
2月2日 |
景勝に再び御館城を攻撃される。
府内に火を放たれ、外郭を焼かれた。 |
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2月5日 | 府内の危急を河田吉久に報じ、本庄秀綱と相談し、
三条城将・神余親綱を促して共に参陣させる。 |
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2月11日 | 本庄繁長に書状送り、来援を心から請う。
繁長の子・顕長が景虎に属して御館城内にいたため。 |
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3月3日 |
琵琶島城将・前島修理亮に使いを遣わし糧食を御館城に送らせる。
旗持城将・佐野清左衛門尉、これを待ち構えて奪取する。 |
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3月17日 | 御館陥落。鮫ヶ尾城へ
兵2000人を従え、3隊に分け、夜、信州に強硬突破するために押し出す。 四つ屋にて上杉憲政と道満丸(9歳)殺される 妻(景勝妹)は侍女14人らと自害 |
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3月24日午の刻 | 自害
法名は徳源院要山浄玄 |
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幻庵息女は相模へ戻り氏尭の妻になる (小田原北条記) | |||||||||||
※景虎は、氏秀と別人説、武田への養子は創作とする説等あります。 | |||||||||||