【人物史実考】
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■安田長秀
    治部少輔。揚北衆。安田城主(北蒲原郡白河庄)。
伊豆の桓武平氏の子孫大見氏を祖とする。鎌倉幕府の白河庄地頭職を賜わった。子孫は安田氏、水原氏を名乗る。
父は安田但馬守実秀?子は安田筑前守堅親か?
天文13年
(1544)
  謙信の兄晴景から所領を新給される。
    謙信が林泉寺を出て越後平定にのり出した当初からその陣中にあった。
    謙信兄・晴景に対する謙信擁立のクーデターに参加した。
    謙信に従って関東や信州に出陣。
たびたび軍功をあらわし、大剛の兵である。(上杉将士書上)
永禄4年
(1561)
3月 小田原城(北条氏康)包囲戦に参加。
9月10日 第四回川中島の合戦で戦功をあげる。
直江景綱、甘糟景持とともに信玄の嫡子・義信軍を倉科のあたりまで追撃した。
9月13日 上杉謙信(政虎)より「血染めの感状」を賜る。
安田治部少輔殿」宛。
血染めの感状とは血で書かれたものではなく、一族郎党の死傷者(血)の 
代償として受けたものである。 
このとき同じく血染めの感状をもらったのは、7人。 
色部勝長・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬 
現存するのは色部・安田・垂水のみ。
天正6年(1578) 9月20日 御館の乱の際、上杉景勝方として軍功をたて三潴分を与えられた。
天正9年(1581)   新発田重家が織田信長に通じて謀反を起す。
征伐するために新発田攻めに出撃。
天正13年(1585) 4月16日 新発田攻めの決着がつかないうちに陣中で病没。
没年齢不祥。
天正20年
(1592)
  (病没ではなくこの年に死去の説あり)
 
安田新太郎という名前が同時期に安田城主として出てくるのですが、
同一人物かわからないのでここには載せていません。


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